飢饉や戦争が身近で、いまほど肥料や品種改良、物流網も充分ではなかった時代。
ヨーロッパの村落はイザという場合に備えて食糧を蓄えておりました。
しばしばそのような食糧は、軍隊にとって現地調達の対象にもなったのでございます。
今日はそんな時代の御話。
ただし対象の時代は中世から近世、近代とあまりに長く、またヨーロッパと申しても広うございます。
主語を大きくすると火種の元、あっという間に火事ボーボー。
あくまでナポレオン戦争中の、一村落の事例としておきたいと思います。
まず、当時のフランス大陸軍が下士官卒にどれくらいの食糧供給量を定めていたのか。
一名当たり一日約1kg弱。
内訳は、パン1.5ポンド(680g)、肉0.5ポンド(226g)、米1オンス(28g)もしくは乾燥果物2オンス(56g)だそうです。
第一大戦中のフランス軍が4.4kg。英米軍で3.352kg。いちばん少ないイタリア軍で1.35kgだったそうですから「1日1kg」というのはかなり少ないように思えます。
そこはまあ、時代が時代でしたので供給量が定まっているだけマシというもの。貧弱な補給体制の下、謳い文句通りに支給して貰えるだけでもありがたかったことでしょう。むしろそこまでやれていたかの方があやしい。少なくとも部隊間や地域間でバラバラといったところでしょう。
因みにナポレオン軍はいわゆる掠奪兵の群れではありません。少なくとも表面上、体制上は。進軍予定となる地域の街や村落に、これこれ、どれくらいの兵隊が通過するから、何日までにこれくらいの食糧を用意しておきなさいよ、というやり方です。
そして紙の領収証を発行します。将来いつの日にか、一体いつになるか分かりませんが代価はお支払いしますよ、という建前。
かのネイ将軍などは、このような挑発をやるとき「現地住民もフランス人であるかのように扱うことを忘れないように」と指示していたともいいます。
・・・どういう意味かは、解釈の難しいところですが。
そんなやり方で、例えば「ストラスブールの街には50万人分のビスケットを用意しておくよう」「バヴァリア選挙候は100万人分のビスケットをヴァルツブルクとウルムの街に二等分して準備しておくように」に、などと命令するわけですね。
実際には、38万人分しか準備できなかったとしても。
軍が準備した30万名分の後方食糧到着が実際にはさっぱり間に合わなかったとしても。
ともかくも計算上の目安が出たところで、今回の眼目である地方及び村落の備蓄量です。
プヴァールという小さな村(戸数40軒。住民数600)に、マルモン将軍と麾下1万2000の兵が5日間滞在したとき「彼らは何も不自由することが無かった」といいます。
つまり最低でも冒頭の支給基準を満たせていたと想定した場合、
1万2000×5日×1kg=約60トン。
この小さな村は提供できたわけですね。
…正気か。本当かよ。ちょっと信じられない量です。
他例
かのスルト将軍がハイルブロンの街とその周辺地域(数定全人口1万5000から1万6000)から徴発した物資量。
8万5000名分のパン口糧。
2万4000ポンドの塩。
3600束の干し草。
6000袋の燕麦。
5000パイントのワイン。
800束の藁と100台の四頭立て馬車。
同ハール地方(推定人口8000)からの徴発量
6 万人分のパン口糧
3万5000ポンドの食肉
4000パイントのワイン
10万束の干し草および藁
40台分の四頭立て馬車、100台分のその他の馬車
200頭の馬具付き馬匹
………嘘やん。
※今回の記事は、拙作小説の参考資料における原本及び他資料確認作業中の一環です
参考資料「欧洲戦に於ける聯合軍軍需補給の実績」
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